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Author:はる
旦那様の海外留学にくっついてスイス・チューリッヒへ!!
英語はカタコト、ドイツ語は全くわからないままに生活スタート.
わからないことだらけですが、2014.04~2016.03までの2年間のスイス生活&主婦生活楽しみたいと思っています☆
デジタル一眼レフくんを相棒にスイスでの生活を記録していきます♪

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チューリッヒ一眼レフブログ2~海外留学のおとも~
旦那様の海外留学にくっついてスイス・チューリッヒへ!! 2014.04~2016.03までの2年間、デジタル一眼レフくんを相棒にスイスでの生活を記録していきます♪
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ポーランド・クラクフ旅行♪その4
クラクフ旅行記最終回です。


~11/15、3日目、最終日~


この日は15:00くらいのフライトでチューリッヒに帰る予定だったので、午前中はクラクフの街をブラブラしました。


本当はヴァヴェル城でレオナルド・ダヴィンチの絵画「白貂を抱く貴婦人」を見たかったのですが、行ってみたら長蛇の列!!
これは時間の無駄すぎるということで街ブラに切り替えました。
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この日は日曜日だったので、教会ではどこもミサをやっていて、すみっこにおじゃましてパイプオルガンの音色をきいたり。
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お花屋さんのかわいいディスプレイを見つけたり。
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フロリアンスカ門のわきで絵を売っているところを見つけたり。
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謎のオブジェを発見したり。
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ポーランド名物、バラのジャム入りドーナツのポンチュキを買ってみたり。
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そしてチューリッヒには存在しない、ケンタッキー・フライド・チキンの誘惑に負けたり(笑)
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まったりのんびりとクラクフ最終日を楽しんで、今回も特に大きな問題なくチューリッヒに戻ることができました。


今回のクラクフ旅行は本当にたくさんのことを学び、考えた旅行でした。
楽しいだけの旅行ではなかったですが、行ってよかったと心から思っています。
もし旅行記をすべて読んでくださった方がいたなら、本当にありがとうございました!


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ポーランド・クラクフ旅行♪その3
クラクフ旅行記、二日目の続きです。


~11/14、二日目、「ヴィエリチカ岩塩坑編」~


アウシュヴィッツを訪れて、なんだかもういっぱいいっぱいで、どうにもならない気持ちで完全に機能停止していたので、普段の旅行のときはは主人のガイド係りで、次の移動先や移動方法をすべて把握して行動している私ですが、今回ばかりはプライベートツアーでただ車に乗っているだけで連れていってもらえて本当によかった…と思いました。


アウシュヴィッツを訪れたあとは、クラクフの世界遺産、ヴィエリチカ岩塩坑を訪れました。
塩に光が当たってとってもきれいで、元気になりました。
悲惨な歴史のあとに楽しいことなんて、ということもちょっと思ったのですが、アウシュヴィッツでの歴史にはもちろん真摯に向き合うのは当然のこととして、また別のこととして、ヴィエリチカ観光をしました。
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ヴィエリチカ岩塩坑は、クラクフ中心部から約15km離れたところにある、歴史ある岩塩の採掘坑で、ユネスコの世界遺産にも登録されています。
13世紀から、1950年ころまで採掘が行われていましたが、1996年にコストの問題、坑内で洪水の危険があることから稼動中止となり、現在は観光のための場所として形を変えています。
深さは約360mで、抗路はアリの巣のように張り巡らされ、その全長は300km以上なのだそうです。
観光ルートでも3.5kmにも及び、かなり長い時間歩くので、足に自信がない人は少し大変かもしれません。


ヴィエリチカ岩塩坑の観光は迷路のように入り組んだ道を進むので、個人での入場はできず、ガイドツアーのみとなります。
私たちには日本語ガイドさんが付いてくれていたので、英語ツアーに付いて回りながらその内容をさらに詳しく話してくれました。


まずは地下深くまで、階段で下っていきます。
その数378段!
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遠すぎて下が見えません!


そして、岩塩抗の中は薄暗かったため写真がかなりのブレブレ具合であまりまともな写真がないです(汗)


その昔、ハンガリーの王女キンガ姫がポーランド王家に嫁いだ時、強い想いをこめて投げた指輪の示した場所がヴィエリチカであり、そこから塩があふれるようになったという伝説があるのだそうです。
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その伝説のワンシーンも塩で再現されていました。

採鉱作業の様子の再現もされていました。
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抗路の壁にはお塩がびっしり!
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岩塩抗のお塩をちょっぴり味見。
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精製時に薬品を使ったりしている市販品と違って、全然苦味がなくて甘くて、びっくりするくらいおいしかったです。


トロッコのレールが奥へ奥へと続いていました。
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薄暗い岩塩抗内では小人と出会うこともあったそうよ、とおちゃめなガイドさん♪
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そして、深さ約100mのところには見事な装飾を施された聖キンガ礼拝堂がありました。
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これ全部お塩でできています!!
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ツルツルピカピカの階段や床も、きらきらのシャンデリアも、
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中央の祭壇も、
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壁に彫られた「最後の晩餐」のレリーフも、
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すべてが岩塩でできていました。
ライトの光に照らされてキラキラ輝き、光を通して淡く光る岩塩は本当にきれいでした。
この美しい礼拝堂はすべて、ヴィエリチカの鉱夫たちの手によって作られたのだそうです。


見学コースの途中には、湖のように塩水がたまっているところもありました。
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塩分濃度が高く、完全に飽和しているので塩の結晶ができていました。


岩塩抗の至る所にあったマーク、ガイドさんが「父ではありません」なんてまじめに言うもんだから「父」にしか見えなくなりました(笑)
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3kmにものぼる見学コースを満喫して、そしてホテルまで車で送迎してもらって、この日の内容に満ちたプライベートツアーは終了でした。


いろいろと考えすぎて、そして歩きすぎてかなり疲れたので、判断力乏しいままになぜか夕方にカフェでお茶をした私たち。
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そしてその後、夕食は少し遠くのレストランに行こうかと思っていたのですが、その気力がなかったので、前日に行って気に入ったレストラン「スマコウィキ Smakołyki」に再び行きました。
レストランの詳細は旅行記その1に書いてあります。
この日もピアノの生演奏付きでいい雰囲気でした。

かぼちゃのスープ。
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濃厚なスープでした♪

ポーランドの伝統的なスープ、バルシチ Barszcz。
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鮮やかな赤色が特徴で、この色は材料であるビーツ(burak)の色素によるものなのだそうです。
ロシア料理のボルシチと名前はそっくりですが、ボルシチは肉や野菜がたっぷり入っているのに比べ、このバルシチは基本的にスープだけを頂くのだそうです。
ウシュカ(uszka)と呼ばれる小さいピエロギが入っていました。
ビーツの甘みと、お肉入りのピエロギがよくあっていて、とてもおいしくて温まりました。

前日に食べて、たいそう気に入ったロールキャベツ、Gołąbki (ゴウォンプキ)。
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この日はトマトソースにしました。
トマトソースでもやっぱりおいしくって、毎日でも食べたい!と思いました。


こうして、最後はポーランド料理であたたまって、とても充実した、実のある一日が終わりました。
この旅の最大の目的であったアウシュヴィッツへの訪問を果たし、いろいろなことを知り、考えた一日でした。


それでは旅行記最終日編へ続きます。


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ポーランド・クラクフ旅行♪その2
いろいろとバタバタしていてずいぶんと間が開いてしまいましたが、やっと記事が完成しました。
クラクフ旅行記の続きです。


また、いつもの旅行記では1つの記事に1日の出来事を書いているのですが、クラクフ旅行2日目は本当に濃い一日で、一つの記事にするにはあまりに長くなりすぎてしまうので「アウシュヴィッツミュージアム(オシフィエンチム)+第二収容所ビルケナウ編」と「ヴィエリチカ岩塩坑編」に分けて書きたいと思います。


まずはアウシュヴィッツミュージアム(オシフィエンチム)と第二収容所ビルケナウの見学のことを書きたいと思います。
このアウシュヴィッツ強制収容所に関しては、いつもの旅行記と違って、楽しい、ということは一切ない旅行記で、大変重い話になるかと思います。
また、博物館や施設の写真も載せていますので、残酷な写真や記述でびっくりさせてしまうところもあるかもしれません。
そして非常に長いです。
それでもいいよ、という方は読んでいただけたらうれしいです。
楽しい記事だけ見たいな、という方は、今日のところは読まずに、ぜひまた明日からのブログを見に来ていただけたらと思います。
理解しきれていないところもあり、私の感じ方なので、違うな、というところもあるかと思いますが、今の気持ちを記録していくという意味も込めて一生懸命書きました。



~11/14、二日目、「アウシュヴィッツミュージアム(オシフィエンチム)+第二収容所ビルケナウ編」~


この日は、アウシュヴィッツ強制収容所とヴィエリチカ岩塩坑1日観光ツアー、という日本語ガイドさん付き、タクシーチャーターのプライベートツアーに申し込んでありました。
いろいろとアウシュヴィッツ強制収容所とヴィエリチカ岩塩坑までの行き方や所要時間など検討した結果、こちらが一番効率よく、そして詳しくお話も聞けるのではと思ったので個人で行くのではなくプライベートツアーを利用しました。
とても充実した、大変意味のある一日になったので、利用してよかったと思っています。


アウシュヴィッツ強制収容所は、ドイツが第二次世界大戦中に国家をあげて推進した人種差別的な抑圧政策により、最大級の惨劇が生まれたとされる強制収容所です。
当時、ドイツ軍が作った収容所には、強制収容所と絶滅収容所の二種類が存在し、強制収容所では労働力の確保を目的に、絶滅収容所では収容者のすべてを死に至らしめることを目的としていました。
アウシュヴッツでは到着した収容者を、労働させる収容者とガス室に送る収容者に分けており、強制収容所と絶滅収容所のその両方を兼ね備えた収容所でした。
ユダヤ人をはじめとし、ポーランド人、ロマ人(ジプシーは差別用語であるため、現在はこの言葉が使用されるのだそうです)、政治犯、障害者、同性愛者など、ナチスドイツが収容を決定した数多くの人がヨーロッパ各地から強制的に連れて来られました。


また、アウシュヴィッツという名前はこの町のドイツ語の呼び方であり、ポーランド語ではもともとOświęcimオシフィエンチムという町でした。
第二次世界大戦時オシフィエンチムはドイツ軍に占領され、ドイツ軍によってアウシュヴィッツと呼ばれるようになり(Oświęcimをドイツ語読みしようとしてアウシュヴィッツとなったのだそうです)、ドイツ軍が設立したアウシュヴィッツ強制収容所ができました。
ですので、強制収容所の名前はアウシュヴィッツですが、この町のことはアウシュヴィッツという呼び方ではなくオシフィエンチムと呼ぶべきなのだと思います。


そしてこの収容所に関して「アウシュヴィッツ」とまとめられることが多いのですが、実際には、周辺にいくつかの収容所が存在していました。

主には、
・アウシュヴィッツ第一強制収容所
ドイツ占領地のポーランド南部オシフィエンチム市(ドイツ語名:アウシュヴィッツ)

・アウシュヴィッツ第二強制収容所
オシフィエンチムに隣接するブジェジンカ村(ドイツ語名:ビルケナウ)

・アウシュヴィッツ第三強制収容所
オシフィエンチム近郊のモノビツェ村(ドイツ語名:モノヴィッツ)

第一、第二の二つの収容所跡地は1979年に世界遺産に登録され、「ポーランド国立オシフィエンチム博物館」が管理・公開しています。
今回は第一と第二、二つの強制収容所を見学しました。


まず、ガイドさんのすすめで第二強制収容所ビルケナウから先に見学をしました。
ビルケナウに展示されている当時の写真などは、同じものが第一収容所の博物館にも展示されているのですが、そちらは大変混み合っているので写真をじっくり見ながら説明をしずらいので、まずはビルケナウでじっくり写真を見ながら説明をしたい、とのガイドさんの意向でした。
そういったことは私たちにはよくわからないので、大変助かりました。


ビルケナウはとても広く、総面積は1.75平方キロメートル(東京ドーム約37個分)で、300以上の施設からなります。
ピーク時の1944年には90,000人が収容されていました。
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施設の境目や周りには、高圧電流が流されていた有刺鉄線がぐるりと張り巡らされていました。
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収容者の寝起きしていた棟は、当初レンガ造りだったのですが、戦況の悪化とともに木造に変更されていきました。
木造の建物の木材は戦後解体され、暖房に使用されてしまったのだそうで暖炉の煙突しか残っていませんでした。
広い敷地に煙突のみがポツポツと点在する異様な光景。
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残っているレンガ作りの棟に入ってみるととても寒く、当時、-20~30℃にもなった環境で薄い服と毛布一枚しか与えられなかった収容者の方々はどんなにか寒くつらい思いをしただろうかと思いました。
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3段ベッド。
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収容者はそれぞれの段に7人くらいずつ寝させられており、一つの棟に、約400人を収容していたのだそうです。
400人に対してたった一つの小さな暖炉。
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こんな暖炉ではさぞかし寒かっただろうな。

アンネの日記のアンネ・フランクも、収容された当初はこのビルケナウ収容所に収容されていました。
アムステルダムで見た、アンネ・フランクハウスの様子や彼女の瑞々しい文章、はじけるようなかわいらしさのアンネの笑顔が脳裏に浮かび、こんなところで…と泣きそうな気持ちになりました。
アンネ・フランクハウスを訪れたときのブログ

そしてここは棟のリーダーの部屋。
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リーダーになると、暖炉の付いた個室が与えられ、収容者たちに何をしてもよいことになっていたのだそうです。
たとえ理不尽に暴力を振るってもいいのです。
こんな風に、収容者の中に上下関係、区別、優劣を付けることで、仲間意識を薄れさせ、お互いに不信感を与え、団結して反抗することを防いでいたのだそうです。
考えられた巧妙なやり方にゾッとしました。


ビルケナウには3つのガス室がありました。
ドイツはここをダイナマイトで爆破し、証拠を消そうとしましたが、ソ連の進行がとても早く逃げる前に破壊しきれず中途半端なままになったのだそうです。
ガス室横には、焼却所で焼いた収容者の方々の骨が捨てられた場所があったのだそうです。
ドイツ人が殺し、焼いたのではなく、精神的に辛い仕事は収容者の役割だったそうで、それはドイツ人が罪悪感を感じないためのシステムです。

そして貨物列車に乗せられた人々を敷地内まで運び込む引込み線と、死の門。
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この建物の向こう。
線路はヨーロッパ中につながっていました。


実際にここへ収容する人を乗せて来るのに使用された貨物列車。
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この一台に40~80人もの人が乗せられていたそうです。
どんな気持ちでここへ来たのか。
これから起こるであろうことを、少しは知っていたのか、全く知らなかったのか。
絶望だったのか、新しい生活を夢見ていたのか。
冷たい風の吹き荒ぶ中線路に立ち、じっとそれを想像してみても答えは出ません。


ここへ着くと、人々は下ろされ医師に、働けるか働けないかの判別をされました。
一瞬の見た目だけで。
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ガス室か、過酷な労働か。
ここへ来た人々のほとんどがガス室へ送られ、命を落としました。
あまりにたくさんの人を送り、収容するスペースがなかったそうです。
本来命を救う職業の医師が、このような命の選別の役割をここでは担っていました。
悲しい。


一度入ったら出ることは叶わない、死の門。
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今も静かに立っていました。



そして、ビルケナウの見学を終え、アウシュヴィッツ第一収容所へ向かいました。

アウシュヴィッツ第一収容所の、アウシュヴィッツ博物館では持込手荷物の制限があり、30x20x10cmサイズの荷物のみ持込が可能で、手荷物検査があります。
大きな荷物は、博物館の有料ロッカールームに預けることになります。


そしてまずは、有名な収容所の入り口の門。
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上には、「ARBEIT MACHT FREI (働けば自由になる)」の文字。
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働くことで、自由になれた人など誰一人いなかったのに。
Bの文字が上下反転しているのは、これを作成したユダヤ人の抵抗の気持ちとガイドブックなどには書かれていますが、実際はそうではないのだそうです。
そんなことに当時のドイツ軍が気が付かないはずはないし、許すはずもない。
これは単なる当時の流行の表記方法であったのだそうです。
ですが、なぜそんな説が出たのかというと、終戦後にドイツから解放されたポーランドの人々の、ドイツ人はそんなことにも気が付かないほどバカだった、と思うことで自己を鼓舞し独立への気持ちを高めていたのではないかと言われているそうです。
様々な人々の、いろいろな思いの詰まったエピソードだと感じました。


こちらは収容者で構成されたオーケストラの写真です。
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実際に、毎日収容者が労働に出掛けるときには人数を数えやすくするため音楽のリズムに合わせて歩かされたのだそうです。
ですがその実態はこんなふうな優雅なものではなく、この写真のような光景は収容者が列車で到着した時だけだったのだそうで、「アウシュヴィッツは良い環境である」というわずかな希望を持たせ抵抗させないため、スムーズに行進させ、中へ入れるためのものだったと。
またこのように写真に残したのは、赤十字の査察対策に、この施設の正当性の証拠として正しいことをしている健全な場所と外部に印象付けるためであったと言われているそうです。
またしても、冷酷で巧妙な、ナチスドイツの計算され考えられたやり方に、気分が悪くなり背筋が凍るようでした。


そして収容所内に入ると、こんなにも立派な整然とした施設の風景が広がっていました。
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植えられているポプラの樹は、その当時も植えられていたもので、緑が足りない、ということで植えられたのだそうです。
強制的な労働と、ガスによる大量虐殺が行われていた場所に、緑が足りない、収容者のためにもっと緑を、とはどんな発想なのかと、想像の範囲を超えて、頭が混乱しました。


そして、ヨーロッパ中のたくさんの都市からこの収容所へ人々が運ばれて来ました。
ナチスドイツがこの場所を選んだのは情報の漏れにくい東欧の中で、もっとも真ん中で収容者を運びやすいところ、として選ばれたのだそうです。
直接ガス室に送られた人々は名簿もなく、きちんとした記録もないことからはっきりした数に関しては諸説ありますが、1940年から1945年の約5年間でアウシュヴィッツには約130万人が収容されました。
そのうち110万人がユダヤ人、ユダヤ人以外のポーランド人が14万人、ロマ人(ジプシーは差別用語であるため、現在はこの言葉が使用されるのだそうです)が2.3万人、ソビエト戦争政治犯人が1.5万人、その他犯罪人が2.5万人。
130万人のうち、110万人がここで殺され、殺された90%がユダヤ人だったとのことです。


当時のドイツの方針をあらわす言葉は、「我々ドイツ国家は、ポーランド、ロシア、ユダヤ人、ジプシーから自由になる必要がある。」
ユダヤ人がいるとドイツ人が自由になれない、だから収容し、滅亡させるのだ。
ドイツ国民、ドイツ国家の、自由、そして正義のために。


なぜそんな思想が生まれたのか、そしてなぜこんなにも残酷な大量虐殺をだれも止めることができないほどに、その思想が力を持ったのか、ガイドさんに聞いてみました。


当時のドイツは、経済的に息詰まっていて社会的に成功していくユダヤ人が憎かった、そんな話もあるけれど、本当にそれだけでこんなことが起こりうるのか、他にも何か根源があるのか、こんなに毎日案内をしていても私にはいまだにわからないのです、とガイドさんはおっしゃっていました。
わからないことなのかもしれません。
本当は、なんてもう誰にもわからないのかもしれません。
でも、大切なのは、その事実を知って、考えること。
これが理由、と皆が納得できる(少なくとも今現在においてわかっている範囲で)出来事や理由がなかったとしても、起こってしまうことなのだと、実感し、遠い昔のこととせず、反省し考えることが重要なのだと思いました。



列車で到着した人々。
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収容者は労働者可能な収容者と不可能な収容者(すなわちそれはガス室での死を意味します)に選別されていましたが最後の方は9割方、収容される間もなく、ガス室送りだったのだそうです。

たくさんの子供もいました。
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130万人という数字は大きすぎて気が遠くなるようで想像もできないけれど、こうして顔を見ると私たちと同じとわかるでしょう、この人たちはみな殺されたのです、とガイドさんが静かに話してくれました。
子供と母親が一緒にいるのは、子供は母親といるとおとなしくしているから。
このようにして、抵抗させず、殺されていったのです。


収容者達は、最初からこのような場所に来るとは知らされず、新しい生活が待っていると、言って連れて来られたのだそうです。
新しい生活が待っている、ということに信憑性を持たせるために、一人20kgまでの荷物を持って来てよいと言われたのだそうです。
荷物は人々とは別の車両で運ばれ、あとで手元に届くからと言われ、名前と住所を書かされました。
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早く手元に戻ってきますようにと願いを込めて書いた文字。
もう二度と本人の手元に渡ることはなかったというのに。
そんなところにも、嘘に信憑性を持たせ、信じさせてスムーズにことを運ぼうとするやり方が見えます。

本当のことに気づいていた人もいたかもしれません。
しかし、抵抗することはできず、そして、わずかでも希望を持っていたかったのでしょう。
収容者の方々の持ってきた荷物からそんなことが感じられます。
ドイツ軍はその気持ちを踏みにじって、それらを仕分けし、売り、資金としていたのでした。
たくさんのメガネ。
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義足。
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障がいを持つ人は、排除の対象とされていました。

たくさんの靴。
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夏にはサンダルが必要だろうと、自分の持ってる中から素敵なものを選んで持ってきたのでしょうか。
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靴墨。
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夢見ていた、靴を磨くことのできる生活は、どこにもありませんでした。
大量の荷物を目の当たりにして、そのひとつひとつに、人の命があり、生活があっただという重さ、実感がぐっとのしかかってくるようでした。


また、次の部屋には、収容者の方々の髪の毛が展示されていました。
ご遺体の一部ということで写真の撮影は不可となっていましたが、あの光景ははっきりと目に焼き付いています。
施設に到着すると、労働可能と判断された収容者たちは髪を剃られて坊主にされました。
ガス室で殺された人々の髪の毛も、収容者の手によって剃られ、集められました。
その髪の毛は、織物とされ、出荷されていたそうです。
なぜそんなことをしたのか、収容者は人ではない、という思想のもと牛や羊と同じく毛を織物の材料として使う、とされていたのだそうです。
信じられない事実と、実際に作られた織物を目の前にして、喉に重石が詰まったように言葉は何も出ませんでした。
狂っている。
でもそれをしたのは人です。
それをしたのが私たちと同じ、人であることを信じたくない、と思いましたが事実なのです。


没収した品々の選別も、収容者の役割だったそうです。
ガス室で殺された人々の、金歯まで取ってそれを集めて金の延べ棒を作り、それらはドイツ軍の資金となりました。


また、収容者たちは、到着後労働可能と判断されると番号の刺青を彫られました。
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ドイツ軍の作った収容所の中でも、番号を刺青したのはここアウシュヴィッツだけなのだそうです。
刺青は一生消えません。
生き残った人も、それを一生背負って生きなければなりませんでした。
その方々の気持ちを思うと、またここでも胸が締め付けられる思いでした。


また、収容者の服はとても薄く、冬に-20度-30度となるこの土地ではとても寒かったことでしょう。
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また、洗濯されることがほとんどないため、夏にはとても不衛生でした。
収容者の服には決められた種類ごとのワッペンが付けられました。


食事の内容は、朝はコーヒーと呼ばれた苦い飲み物(実際はコーヒーなどではなく麦を煮出したものだったそう)、昼は腐った野菜の入った薄いスープ、夜はパンとわずかなマーガリンでした。
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こんな食事で過酷な労働をさせられていた収容者たちは、誰もが下痢になり、脱水症や空腹で衰弱した収容者たちは、収容所で広まっていた伝染病の犠牲になりました。


収容者達の写真がずらりと並んでいました。
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何人でどこから来たのか、いつ来て、いつ亡くなったのか、が書かれていました。
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その管理力の高さにも冷酷な残忍さを感じました。


また、多くの子供たちは、労働力とみなされないとし、殺されていきましたが、人体実験も多くされていたそうです。
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特に双子は実験の対象でした。
ドイツの国力を上げるには、双子が欲しい、双子を意図的に産ませるにはどうしたらよいか、というテーマのもと、双子を同時に殺し、その内臓を見比べる、といったような何の意味もない、実験が行われていたのだそうです。
人の命を救う立場の人間が、このようなことをしていたのです。


ここは、「死の壁」と呼ばれ、逃亡者や収容所内での抵抗活動を行った収容者に対して銃殺刑が執行された場所です。
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この場所で多くの人が犠牲になりました。
今もたくさんの花束が手向けられていました。
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また、壁の隣には逃亡をはかった収容者と同じ集団の人々を連帯責任で餓死刑にするための部屋がありました。
他の囚人の餓死刑の身代わりとなり、亡くなったコルベ神父という方がいたのだそうです。
コルベ神父という方は、ユダヤ人にも平等に接し、ユダヤ人をかくまったということで、ここへ強制収容されました。
この状況で誰かの身代わりになろうという気持ち、どこからやってくるのでしょう。
その気持ちをじっと想像してみても、答えは出ません。


収容所内を一通り見て回って、収容所の外に出ました。
こちらにも施設の境目や周りには、高圧電流が流されていた有刺鉄線がぐるりと張り巡らされていました。
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どんなにか外に出たかったことでしょう。
ここに自ら飛び込んで自殺した人もいたのだそうです。
その苦しみを思いながら、眺めたこの光景は忘れません。


有刺鉄線の外に出ると、ガス室がありました。
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この施設が、アウシュヴィッツの中で最初に作られたガス室だそうです。
ここへ到着すると同時に、多くの人がここへ誘導され、犠牲になりました。
また、ここへの誘導、服を脱いで、部屋へ入るよう促すこと、死体の処理、そんな精神的に辛い仕事は、収容者の仕事でした。
それは、ドイツ軍の罪悪感の軽減のため、そして、精神的負担を軽減するためです。
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部屋に入ると、上から「チクロンB」という薬の缶が投げ入れられ、ガスが発生し、人々は死に至りました。
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チクロンBというのは、害虫駆除の薬として売られていたものです。
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害虫駆除の薬剤を発注しただけで、人を殺すためではなかったという、責任逃れを出来るように考えられたこと。
2年間で26トンものチクロンBが使われました。
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ここで亡くなった数多くの人々の苦しみをおもい、訪れる人の皆が、静かに、その場を見学していました。


ここで、一通りのすべての見学が終了しました。
博物館の外に出て、この今の気持ちを忘れたくないという思いで、施設の前のお店で小さなパンフレットを買いました。


ここを訪れて感じたことは様々で、まとめとして簡潔に書くことはとても難しいことです。
うまく伝えることができるかわかりませんが、ここで起きたことは想像を絶する残酷さと悲惨さで、大きな悲しみに胸が痛み、衝撃を受けました。
その一方で、なぜこのようなことが起きてしまったのか、誰も止めることができなかったのか、その問いは、これだ、とはっきりと確信することはできませんでした。
それはすなわち、「もう過ぎ去った、もう二度と起こりえない」のではない、ということなのではないかと思いました。
誰にでもある、人に嫉妬する心、巻き込まれるのを恐れて傍観者になろうとする心、自分に余裕がなくなった時に人に思いやりを持つことのできない状況、誰かのせいにしたいと思う心、そんないつの時代にもあるの積み重ねが、こんな事態に繋がるのだとしたら。
この歴史を悲惨な過去としてとらえるのではなく、現実のこととして、自らの中にも起こりうる問題として、真摯にとらえ、学び、考えるべきなのだと思いました。
これで終わりとせず、何度も自分に問いかけ、向き合うべきことだと思いました。
また、このような悲惨な歴史や、その残された施設を、一般公開しているポーランドという国は素晴らしいと感じました。
衝撃的だから隠す、ショックを受けるから見ない、というのではなく、起きてしまったことに真摯に向き合うこと、前に進むこと、その大切さを感じた見学でもありました。


いつも旅行記は一つの記事がずいぶん長くなってしまって、書くのに何時間もかかるのですが、今回はブログを書く時間がなかなか取れなかったのもあっていつも以上に、何日も時間がかかってしまいました。
まだまだもっと考えるべきこと、表現したいことはあるように思うのですが、ひとまずここで記事としてアップしたいと思います。


こんなに楽しくない長い文章を、ここまで読んでくださった方がいらっしゃったとしたら、本当にありがとうございました。


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ポーランド・クラクフ旅行♪その1
今回の旅は、主人と二泊三日でポーランドのクラクフに行ってきました!
今回も大きなトラブルなく、帰ってくることができました。
素敵な雰囲気と趣のある街並み、物価の驚くほどの安さ、初めての東欧はとてもいいところでした。


今回のクラクフの旅の最大の目的は、主人たっての希望であったアウシュビッツ強制収容所の見学だったのですが、私はポーランドについてあまりよく知らなくて、言葉や通貨を調べるところから始まったのでとても新鮮でした。
言葉はポーランド語、通貨はzł(ズウォティ、PLN)。
ポーランド ズウォティとスイスフラン、日本円の為替はこんな感じでした。
1 PLN = 0.25592 CHF
1 CHF = 3.9075 PLN

1 PLN = 31.3069 JPY
1 JPY = 0.0319 PLN


そして今回はアウシュビッツ強制収容所の見学をより有意義なものにするために、歴史的背景などのさまざまなことを予習して資料にまとめて行きました。
そのため、とてもいろいろなことを勉強して知識を深めることのできた旅行でした。
またゆっくり旅行記を更新したいと思いますので、よかったらお付き合いください。


~11/13、一日目~


この日はチューリッヒから飛行機でクラクフへ。
7時ごろの飛行機だったので少し早起きでしたが、一日を有効に使うことができるのでちょうどよかったです。
飛行機から見た朝焼けがとってもきれいで感動しました。
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チューリッヒからクラクフまでは直行で約1時間半ほどで到着しました。
そして、クラクフのヨハネ・パウロ2世空港から電車に乗ってクラクフ本駅まで行きました。
空港からクラクフ本駅までを結ぶこの電車は、これまでしばらく工事中だったのが2015年の9月に新装開通したのだそうです。
片道8ズウォティで約20分ほどでクラクフ本駅へ到着しました。


ホテルに荷物を預けたら、クラクフ旧市街の散策へと繰り出しました。
クラクフ(Kraków)はポーランド南部にある、最も歴史ある都市のうちのひとつで17世紀にワルシャワに遷都するまでは首都でした。
第二次世界大戦において戦災を免れたポーランドでは数少ない都市で、中世そのままの町並みが現在まで残されていることから、旧市街全体が世界遺産に登録されています。
街が戦争で破壊されずに残っているのは、当時ドイツ軍の上層部がクラクフ中心部にあるヴァヴェル城を使用していたからなのだそうです。
ワルシャワは、ワルシャワ蜂起の際にすべて破壊されてしまったので、こうして美しい街並みが残っているのはとても貴重なことなのだと思いました。


ホテルを出てまずは、ホテルの近くでマーケットのようなものがやっていたのでふらっと入ってみたり。
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屋根つきの簡単な建物?の中がマーケットでした。
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お野菜やパン屋さん、お花屋さんなど、地元の人たちでにぎわっていました。
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こういうところにふらっと入ってみるのも大好きです。


そして、旧市街に向かって歩いてまずは、バルバカンへ。
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このバルバカンと城壁は5世紀末のもので、街の入り口の門を侵入者から守る砦でした。
このような円形の砦が残っているのはヨーロッパで3ヵ所だけで、ここがもっとも大きなものなのだそうです。
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どっしりしていて何だか守ってくれそうです!


そしてこちらがフロリアンスカ門。
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ここをくぐると旧市街に入ります。
民族衣装のおじちゃまたちが演奏をしていたり。
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石畳の道をぶらぶらと、中央広場に向かって歩きました。
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そして道沿いにはたくさんのオブヴァジャンキ(obwarzanki)の屋台が出ていました。
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オブヴァジャンキはポーランド版プレッツェルのようなパンで、まぁるい形でゴマがかかっていました。
一つ1.5ズウォティ(50円弱)というお安さ!
一つ買ってみました。
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パン生地がほんのり甘くて、ゴマがいい風味でとっても素朴でおいしいパンでした。
歩きながらパクパク、気に入りました♪


そんなことをしていたら、中央広場に到着しました。
広場の中心にはポーランドの国民的詩人、アダム・ミツキエヴィッチさんの像。
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広場にはいくつものお花屋さんが、丸いわっかの飾りを売っていました。
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クリスマスの飾りなのかな?


こちらは織物会館。
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14世紀に建てられたルネッサンス様式の建物なのだそうです。
2階は国立博物館の分館になっていますが、1階部分はお土産屋さんが立ち並んでいました。
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琥珀屋さん。
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カラフルでかわいらしい小物入れ。
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チェスのこま。
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ポーランド食器のボレスワヴィエツ。
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などなど、たくさんのクラクフらしいお土産屋さんがところ狭しと並んでいました。
何も買わなかったのですが、見ているだけでなかなか楽しかったです。


市庁舎の塔。
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観光のお客さんを乗せる馬車もたくさんこの広場から出ていました。
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こちらは聖マリア教会。
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こちらの教会の左の塔の窓からは、毎時00分にラッパ吹きさんがひょこっと出てきて、ラッパをふきます。
1分くらいの演奏を四方の窓から順々にするのですが、演奏が曲の途中でぷつっと途切れます。
かなり突然なので、おぅ、終わりか?!となりました、笑。
昔モンゴル軍がクラクフを攻め入った時、この教会の窓からラッパ吹きがラッパを吹いて危険を知らせのですが、最後まで吹き終わらないうちにモンゴル軍の兵士によって喉を打ち抜かれて殺されたのだそうです。
そのため、その時のラッパ吹きと同じように途中までしか演奏されないのだそうです。
おもしろいですよね。
演奏が終わると、ラッパ吹きさんが下の人たちに手を振って、下で見ていた人たちも手を振り返していてほのぼのしたひとときでした。

そして聖マリア教会の中は、鮮やかな青を基調としたとても美しい教会でした。
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そしてさらに旧市街を散策して、どうしても買いたいと思っていたかわいらしいポーランド食器(ボレスワヴィエツ)を見に行きました。

ポーランド食器のお店は旧市街に2つあるようで、この二つのお店に行きました。(営業時間は季節によって変動があります。)
■DEKOR ART
住所:ul. Slawkowska 11
営業時間:10:00~18:00、土曜10:00~16:00、日曜11:00~16:00
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■MILA
住所:ul. Sławkowska 14
営業時間:10:00~18:00、土曜10:00~16:00、日曜 close
HP:http://www.mila.shop.pl/
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お店の中にはとーってもかわいいポーランド食器がズラリ!
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いろいろな種類のお皿やマグカップ、スプーンなどに、いろいろな種類のかわいい模様が書かれていて、もうそれはそれは悩みました。
これかわいい!これもかわいい!どうしよう~これにしようかなぁ~でもなぁ~と悩みまくる私と、それに付き合ってくれて、それがいいんじゃない?それにしたら?という返事をする夫(笑)。
二つのお店は道を挟んではす向かいにあるので、うろうろウロウロ行ったり来たりしながらずいぶんと長いこと悩んでしまいました。
ずいぶんと悩みましたが、気に入った大きめのお皿を一つ、買いました♪
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大切に日本に持って帰ります(*^^*)
買い物に付き合うのは好きじゃないと思うのに、好きなのを選びな、とじっと付き合ってくれた主人に感謝です!


そしてさらに旧市街を歩いて、途中でランチにすることに。
セルフサービスで手軽にポーランド料理を楽しむことができるレストラン「ポラコウスキPolakowski」に入ってみました。
ポーランド語がまったくわからないので、英語メニューがあって助かりました。
店内もかわいらしい雰囲気でした。
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本物のお野菜がディスプレイされていたり。

私たちはまずはポーランド料理の王道?をいろいろ頼んでみることにしました。
ポーランドは様々な種類のスープが有名、ということでジュレック(Zurek)というスープ。
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ジュレックは発酵ライ麦のスープで、中にはソーセージやゆで卵などがゴロゴロ入ってました。
少し酸味があり、かなり食べごたえのあるスープでした。

そしてポーランド版の餃子のようなピエロギ。
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中身はカッテージチーズとポテトをチョイスしてみました。
もちもちの皮でこれまたとっても食べごたえあり!

カツレツ(Kotlet)。
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でか!
サックサクに揚がっていてジューシーでとってもおいしかったのですが、いかんせんボリューミー!
この3つを二人でシェアしたのですが、かなーりお腹いっぱいになってポーランド料理ってかなり重た目で量も多いのでは、ということがわかりました。
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お腹パンパンすぎて、次からはもう少し控えめに注文しようと思った私たちでした(笑)。
それでもこれ全部で28ズウォティ(900円くらい)でスイスとの物価の違いに本当にびっくりしました。


そして腹ごなしに歩きながらヴァヴェル城へ。
途中にあった教会。
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スイスでは見慣れない形です。

ヴァヴェル城、おっきなお城です!
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ゆるい坂道をてくてく上って敷地内に入ります。
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城壁の蔦がきれいに色付いていました。
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上からヴィスワ川を臨む。
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そして、11月はヴァヴェル城は無料入場できる月なのだそうですが、入場には整理券が必要でこのとき(午後2時くらい)はもうこの日の整理券は終わってしまったそうでした。
もともとヴァヴェル城では常時無料で入ることのできる部分(敷地内、王宮中庭、大聖堂)と、レオナルド・ダヴィンチの絵画「白貂を抱く貴婦人」だけ見れればいいなぁ(10ズウォティ)と思っていたので、この日はとりあえず敷地内と、王宮中庭、大聖堂を見学して、レオナルド・ダヴィンチの絵画「白貂を抱く貴婦人」はまた後日見に来ることにしました 。
きれいな中庭。
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大聖堂。
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いろいろな建築様式が組合わさっていて美しい教会でした。
中は撮影不可だったのですが、装飾がとても豪華で美しかったです。


そして、お城の敷地内を出て、お城の外堀をヴィスワ川に沿ってぶらりとお散歩しました。
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夕方の光に照らされたススキがきれい。
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絵になるカップルさんたちがたくさん。
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そして竜の洞門(冬季閉鎖中)の出口にある竜のオブジェ。
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たまに一瞬、火を吹きます!笑
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この街に伝わる、古いおとぎ話の伝説の竜なのだそうです。
その伝説によると、昔ヴィスワ川にすんでいた竜が、付近の村の美しい娘をさらっては食べていたという。そこである靴職人の弟子の若者が、竜をだましてタールと硫黄をしみこませた羊を食べさせた。喉の渇いた竜はヴィスワ川の水を飲み続け、しまいにはお腹が破裂してしまった。この功績で、若者は王様の娘と結婚し幸せに暮らしました、というお話なのだそうです。
伝説の竜というにはちょっとモダンというかゴジラっぽいというか(笑)でしたが、一緒に記念撮影して満足でした。


そしてここからさらに歩いて、カジミエシュ地区へ。
映画シンドラーのリストのロケ地でもあります。
カジミエシュという地名は、1335年にこの地を造ったカジミエシュ王の名前に由来し、カジミエシュ王は、当時のヨーロッパでも迫害されていたユダヤ人をこの地に招き、商工業を振興させた王なのだそうです。
第二次世界大戦前までこの地域はユダヤ人街として栄えたのだそうです。
今も至る所にその面影を残し、たくさんのシナゴーグ(ユダヤ教の礼拝所)がありました。
こちらはテンペル・シナゴーグ。
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黄金に輝くきらびやかな装飾が非常に美しく、私たちの他に訪れている人がいなかったのもあり、時間を忘れてうっとりと見入ってしまいました。
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こちらでは、男性はユダヤの帽子を被ってください、とのことで主人だけ帽子を渡されてかぶって見学していました。
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帽子を渡されてかぶったら、受付のおばちゃまが、クールよ!と言ってくださいました♪


そしてカジミエシュ地区をぶらりと散策すると、至る所に五芒星や、
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ヘブライ語が。
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そしてこのあたりは近年ではオシャレなカフェやショップが集まる地区として再注目されているのだそうで、ミシンの台をテーブルにしたオシャレカフェや、
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個性的な雑貨屋さんなどが軒を連ねていて、歩いているだけでいろいろな発見ができるとても刺激的で楽しい場所でした。
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そしてずいぶんと歩き回って疲れたのでホテルまでトラムで戻り、チェックインをしました。
今回は旧市街からほど近い「Hotel Atrium」というところに泊まったのですが、3つ星の普通にちゃんとしたホテルで朝食付きで、2人で2泊404ズウォティというお安さでうれしかったです。
お部屋もとてもきれいだったのですが、足が疲れたー!と思いながらホテルに着いてほっとしたらお部屋の写真を撮り忘れました。


そして、しばらくホテルで休憩して少し回復したら、いざディナーへ!
インターネットで事前に調べて、「スマコウィキ Smakołyki」というヤギェウォ大学近くにあるお店に行きました。
住所:ul. Straszewskiego 28, Kraków
FACEBOOKのページ:https://www.facebook.com/Smakolyki
トラム&バスストップのバガテラ劇場 Teatr Bagatelaから徒歩5分ほどのところにありました。

ここではお昼の教訓を生かして、トマトスープ Zupa pomidorowaと、 ポーランドの ロールキャベツGołąbk((ゴウォンプキ)を頼んで二人でシェアしました。
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ポーランドのロールキャベツは中に肉とお米が入っていて、 おっきなロールキャベツにマッシュルームソースがかかっていてとってもボリューミー!
これがほんっとうにおいしくって、二人で大ハマり。
そしてトマトのスープもとってもおいしくて濃厚で、お米が入っていてスープ多めのリゾットのような感じもありすごくお気に入りになりました。
おいしいねぇ~!とずーっと言いながら食べて、ビールを飲んで大満足でした。
スープとロールキャベツを2人で分けるのって少なすぎ?と思ったりもしましたがそんな心配は全くなく、二人ともお腹いっぱいになれてちょうどいい量でした。
どちらも味付けがとってもおいしくて、そしてたまたまかもしれないのですがピアノの生演奏付きで雰囲気も素敵でした。
大学の近くなので、学生さんかな?というようなおしゃれな若者でにぎわっていて、店員さんもとても感じがよくて(英語メニューもあり店員さんもみなさん英語が通じました)、とてもいいお店でした。
大満足のディナーとなりました。


そしてお腹いっぱいほろ酔いの私たちは、ヤギェウォ大学の敷地内をぶらりお散歩しながらホテルに戻りました。
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ヤギェウォ大学は1364年にカジミエシュ3世によって設立されたポーランド最古の大学なのだそうです。
地動説を唱えたコペルニクスやヨハネ・パウロ2世もここで学んだそうです。


そして、さらにホテルでおしゃべりしながらちょこっとポーランドのビールを楽しんで…
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こうして割と盛りだくさんだった1日目がおしまいでした。
一通りクラクフの街を巡ることができて、ポーランド料理も楽しめて大満足でした。
街はとてもきれいで治安も悪くないように感じましたし、人もみな親切で、心配していた言葉の面も思っていたよりもずっと英語が通じてほっとした1日目でした。
それでは旅行記その2に続きます。


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行ってきます!
今日から数日旅行に行ってきます♪
ここ数日そのためにいろいろ調べものをしていました。
今回は一人じゃない旅!
わーい!!
主人との週末を利用した短い旅行です♪


今回の行き先はこちら。
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スイスに来て初の、通貨がユーロ圏を飛び出した旅行です!(スイスもユーロじゃないですが、笑)
最寄り駅のOerlikonで両替しようとしたらマイナーすぎたのか、ここにはないから中央駅か空港に行ってね、ごめんね~って言われました。


そして英語があまり通じないところのようでちょっとドキドキ。
まぁもともと大した英語ができるわけでもないので、いつものように身ぶり手振りでなんとかなるかな?
二泊三日の短い旅行ですが楽しんできたいと思います!


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